富士通の歴代社長です。評価・評判・実績の一覧。
| 就任期間 | 名前・略歴・学歴など |
|---|---|
| 2019年6月~現在 |
時田隆仁(ときた・たかひと)【略歴】 1988年、富士通入社。2014年金融システム事業本部長、2015年執行役員、2017年執行役員常務(兼)グローバルデリバリーグループ長。2019年代表取締役社長 【学歴】 東京工業大学(工学部金属工学科)1988年卒業 【出身】 東京都出身、1962年9月2日生まれ 【社内キャリア】 大学では金属工学を専攻。恩師の勧めで富士通に入社し、以来一貫して金融機関向けのシステムエンジニア(SE)としてキャリアを積んだ。メガバンク等の大規模基幹システム構築を数多く手掛け、現場の技術と顧客ニーズの双方に精通する。 2017年からはロンドンに拠点を置き、世界各地のサービス拠点を横断的に統括するグローバルデリバリーグループ長などを務めた。 |
| 2015年6月~2019年6月 |
田中達也(たなか・たつや)【略歴】 1980年、富士通入社。2003年産業システム営業本部産業第一営業部長、2005年産業システム営業本部長代理、2009年産業システム営業本部長。2010年執行役員、2014年執行役員常務(兼)アジアリージョン長。2015年代表取締役社長 【学歴】 東京理科大学(理工学部 経営工学科)1980年卒業 【出身】 三重県出身、1956年9月11日生まれ 【社内キャリア】 入社以来、一貫して製造業向けの産業営業部門を歩んできた。 海外経験が豊富。執行役員常務としてアジアリージョン長を務め、上海を拠点にアジア市場の開拓を最前線で指揮したグローバル派。 現場での実行力を重視する実務家として知られ、停滞していた海外事業の収益改善と、スピード感のある経営変革を期待され、トップの座を託された。 |
| 2010年4月~2015年6月 |
山本正已(やまもと・まさみ)【略歴】 1976年、富士通入社。1999年パーソナルビジネス本部モバイルPC事業部長、2002年パーソナルビジネス本部長代理、2004年パーソナルビジネス本部副本部長。2005年パーソナルビジネス本部長(兼経営執行役) 【学歴】 九州大学(工学部部)1976年卒業 【出身】 山口県出身、1954年1月11日生まれ 【社内キャリア】 入社以来、一貫してパーソナルビジネス(PC事業)の最前線を歩んできた。特にノートPC「BIBLO(ビブロ)」シリーズなど、富士通が世界をリードしたモバイルコンピューティング事業の成長を牽引した功労者。 営業畑出身だった間塚道義氏とは対照的に、商品企画や事業戦略に精通した「プロダクトの顔」として知られる。前任者の辞任という異例の事態を受け、会長に就いた間塚氏との二人三脚で、混乱した社内の動揺を鎮め、経営の安定化と構造改革に奔走した。 |
| 2009年9月~2010年3月 |
間塚道義(まづか・みちよし)※在任期間は半年間のみ。前社長の野副氏の4つ年上。野副氏が社長に昇格するのと当時に、会長(代表権あり)になった。しかし、野副氏が失脚したことを受けて、空席になった社長と会長を兼務した。 【略歴】 1968年富士通ファコム(後の富士通エフ・アイ・ピー、さらに後の富士通Japan)入社。1971年富士通へ転社。1997年産業営業本部長代理。1999年常務理事産業営業本部長。2001年取締役(東日本営業本部長)、2002年執行役、2003年常務、2004年ソリューションビジネスサポートグループ長。2005年6月、取締役専務(兼ソリューションビジネス担当兼ソリューションビジネスサポートグループ長) 【社内キャリア】 入社以来30年以上にわたるキャリアを、ほぼ製造業を対象にした営業一筋に歩んだ。営業出身ならではの気さくな性格。「ごりごりと(受注案件を)取っていく営業文化」の体現者を自任していた。専務時代には、当時の黒川博昭社長が唱えるフィールド・イノベーション(現場を変えるIT)を支えた。 【学歴】 学習院大学(経済学部)1968年卒業 【出身】 東京都出身、1943年10月17日生まれ。 |
| 2008年6月~2009年9月 |
野副州旦(のぞえ・くにあき)【略歴】 1971年、富士通入社。2000年海外事業推進本部長、2001年海外事業本部長、2005年経営執行役常務、2006年経営執行役専務。2008年代表取締役社長 【学歴】 早稲田大学(政治経済学部)1971年卒業 【出身】 福岡県出身、1947年7月30日生まれ 【社内キャリア】 入社以来、一貫して海外事業の最前線を歩んだ。通算の海外駐在期間は20年近くに及び、主に欧州市場の開拓に心血を注いだ「国際派」の急先鋒として知られる。 2008年の社長就任後は「真のグローバル企業」への脱皮を掲げ、 不採算事業の整理や、従来の国内中心のビジネスモデルからの脱却を提唱。実利を重んじる合理的な経営スタイルで構造改革を推し進め、間塚道義会長(当時)と共に、グローバル競争に勝てる組織への変革に辣腕を振るった。 【社長時代】 国際経験を活かし、大胆な改革に取り組んだ。ドイツの富士通シーメンス・コンピューターズを完全子会社化するなど、海外拠点の再編と経営の一体化をスピード感を持って断行した。 就任2年目から、前任者の黒川氏が掲げながらも成し得なかった国内改革を実行に移した。営業とSEの組織をシンプルな形に整理しようと、業種や地域、さらには親会社と子会社にわたって、数万人に及ぶ異動を敢行しつつあった。 宿敵・NECの半導体子会社であるNECエレクトロニクスとの提携を模索したと言われている。 しかし、わずか1年3カ月で退任した。創業以来の最短記録を作ってしまった。それまでもっとも在籍期間が短かったのは、病気で退任し会長となった7代目の清宮博だったが、野副はそれより1カ月短かった。 |
| 2003年6月~2008年6月 |
黒川博昭(くろかわ・ひろあき)【略歴】 1967年、富士通入社。主に官公庁や通信事業者向けの営業・企画部門を歩んだ。1994年公共営業本部長、1996年取締役。2001年常務理事、2002年専務(兼)営業・保守・ソフトウェアサービス担当。2003年代表取締役社長 【学歴】 東京大学(法学部)1967年卒業 大学で山岳同好会に所属。「法学部山の会」というグループ名だった。 社長になるまで、暇を見つけては山に登る山男だった。 社内では「健脚」として知られているが、「山の会」の仲間のなかでは、決して強いほうではなかった。同期は8人。そのなかで2番目に強いサブリーダーが隊列の先頭を歩き、その後ろに最も弱い人間、その次に弱い人間、と続き、いちばん健脚のリーダーが最後尾を務めた。黒川氏は、実は、だいたい2人目か3人目を歩いたという。 【出身】 山口県出身、1943年9月14日生まれ 【社内キャリア】 SE(システム・エンジニア)ひと筋に歩んだ。ユーザーのところに行きっぱなしの日々が続き、相手が考えていること、期待していることを、とことん聞き、「問いかけ」が身についた。そこから、コンピューター会社にとって何よりも大事なのは「品質と納期」だという信念が生まれたという。 朴訥な風貌だが、率直にものを言い、馬力で行動するタイプで自ら先頭に立って現場を回った。 【社長時代】 2008年3月、半導体部門を分社化。新たに「富士通マイクロエレクトロニクス」として再スタートを切った。赤字を垂れ流す半導体事業に業を煮やし、独力で生き残りを図らざるを得ない状況に追い込むため、社長のトップダウンで本体からの切り離しを断行した。 |
| 1998年6月~2003年6月 |
秋草直之(あきくさ・なおゆき)【学歴】 早稲田大学(第一政治経済学部)1963年卒業 【出身】 栃木県出身、1938年12月12日生まれ 【社長時代】 社長就任当初、インターネット勃興期のブームの波に乗って「ITの寵児」ともてはやされた。 「すべてをインターネット上に(Everything on the Internet)」というスローガンの下、インターネットプロバイダー(接続業者)のニフティを完全子会社化した。オンライントレードやネット銀行といった事業に参入した。 2000年、株価は一時5000円を超える高値をつけた。だが、どの事業も大きな成果が出ないまま、ITバブルが収束する。業績と株価は急下降した。縮小均衡に向けたリストラに追い込まれた。 2001年度に3825億円、2002年度に1220億円という巨額の最終赤字に陥った。 他の電機メーカーよりも落ちぶれた。連続リストラで財務体質が傷んだ。連結自己資本比率は2002年12月末時点で15・5%に悪化。同月末の連結自己資本6535億円に対して将来の回収可能性が問われる繰延税金資産は約2300億円に上った。 |
| 1990年6月~1998年6月 |
関澤義(せきざわ・ただし)東京大学(工学部)卒 【生誕】1931年11月、東京都出身 【死去】2021年1月。享年89歳。死因は気管支肺炎(誤嚥性肺炎)。 【入社年次】1959年 【社長就任前の役職】専務 【社長就任時の年齢】58歳 【同時人事】山本卓真社長が代表権のある会長に、安福真民副社長が副会長に 【入社後の略歴】入社以来、長らく通信畑を歩んだ。交換事業本部長などを務めた。 1984年取締役、常務を経て、1988年6月から専務。 1989年6月には、専務に加え、「営業推進本部長兼情報処理部門担当」という「参謀本部長」に就任。 この間、32ビットパソコンの「FMタウンズ」事業にも携わった。 【就任前の評判】当てる投資顧問業界勉強会によると、山本卓真・前社長が、米IBMとのコンピューター著作権紛争や日米ハイテク摩擦問題などで「言うべきことは言う」との姿勢を貫き“剛の山本”と評されたのに対し、“柔の関沢”と評された。1989年秋の「1円入札事件」では、山本・前社長が「ゴミのようなもの」と強気で通したのに比べ、「商慣習上の道義なら(富士通に)問題があるかもしれない」と述べ、ソフトムードを印象づけた。 【親】父親は関澤明氏 【趣味】料理、読書、音楽鑑賞 【信条】肩書で人を評価しない |
| 1981年6月~1990年6月 |
山本卓眞(やまもと・たくま)【学歴】 陸軍航空士官学校(58期)1945年3月卒業 東京大学(第二工学部電気工学科)1949年卒業 【出身】 熊本県出身、1925年9月11日生まれ ※米IBMとの互換機路線を積極的に推進した。富士通をIBMに次ぐ世界2位、国内最大のコンピューターメーカーに育て上げた。 最大の懸案だった米IBMとの著作権紛争は1988年11月に決着。日米ハイテク摩擦の渦中を生き抜いた。「米国が悪い面ははっきり言おう」と歯に衣(きぬ)着せぬ発言で注目を集めた。 最後の大仕事として、英ICL買収を決断した。 |
| 1976年3月~1981年6月 |
小林大祐(こばやし・たいゆう)※富士通を日本一のコンピューターメーカーに育て上げる基礎をつくるなど、コンピューター事業に全情熱を傾けた。 1950年代前半、それまで電電公社の通信の仕事に依存していた同社の事業領域を広げようと、コンピューターを新規事業として提案した。社内の天才技術者・池田敏雄氏を中心とする開発体制を築き、通信機器事業に偏っていた富士通に新しい芽を植え付けた。 社長就任後、コンピューター事業の営業力の下地を作り、売上高で日本IBMを抜いた。 学歴1935年、京都帝大(現:京都大学)工学部を卒業経歴1935年、富士電機(当時:富士電機製造)に入社した。入社3か月後の6月20日付で新しい子会社「富士通信機製造」(現:富士通)が設立されると、すぐに転籍となった。 つまり富士通の第一期生だった。 山本卓眞氏(後の社長)の自伝「志を高く」によると、小林氏は戦時中、陸軍研究所の要請で、皇居を中心とする東京中心部を敵機の爆撃から守る防衛システムの構築に携わった。しかし、自分たちの高射砲は当たらず、東京は空襲で焼かれた。このとき、コンピューターの重要性を痛感したという。 コンピューター参入を提案1951年、開発課長に就任する。 将来のための新規事業を生み出すための部署だった。 進取の気性にあふれていた。 「大風呂敷の小林」とも呼ばれていた。小林氏は、以下の3つの新規事業を、役員会に提案した。
独断で東証システムに挑戦1952年、開発課長の小林氏は、東京証券取引所が「株式精算システム」の導入を計画しているとの情報を入手する。 それまでの手計算から機械処理への転換を図る、というものだった。 小林氏は、交換機で使用しているリレー素子も用いた専用コンピューターの開発を考えた。 当時はパンチカード式が主流と見られており、日本でもIBMなどが金融機関に導入していたが、小林氏はリレー式に目をつけた。このとき、高純一社長と技術担当の取締役(尾見半左右氏)は欧州視察で海外出張中だった。 独断で東証案件の入札に向けた準備を進めてしまった。 開発担当者として、開発課の部下である池田敏雄氏(当時29歳)、リレー素子に詳しい山本卓眞氏(交換機課)(当時27歳)、山口詔規氏(当時26歳)という若手3人を集めた。国産初のコンピューター開発に取り組んだ。 日本初のリレー式東証からの受注には至らなかった。 しかし、池田氏が改良を続けた結果、 1954年10月、日本初のリレー式コンピューター「FACOM(ファコム)100」が完成した。なお、山本卓眞氏(後の社長)の著書「志を高く」によると、小林氏は若い頃から体が弱く、いったい何歳まで生きられるのか、というのが周囲の見方だったという。 小林氏はその後、開発部隊から販売部隊へと活躍の舞台を移した。 池田氏のピンチを救う1959年秋、コンピューター開発体制が混乱して困っていた池田氏(当時:電算機課長)が、大阪の販売部長になっていた小林氏を訪ねた。 直接、助けを求めた。 これを受けて小林氏は和田社長に、コンピューターを担当する事業部の創設を提案する。 1959年11月、電子部が新設され、自ら初代部長に就いた。 天才肌の池田氏が働きやすい環境をつくり、開発を後押しした。また、本格的なコンピューターの開発に乗り出すために、専門工場の建設を経営陣に迫った。実績が上がり始めたとはいえ、金食い虫のコンピューター事業に対する社内の風当たりは相当強いものがあった。 常務、専務、副社長を経て、1976年社長。それから3年後の1979年、ついに売上高で日本IBMを追い抜き、富士通を日本一のコンピューター会社に仕立て上げた。1981年6月会長、1986年から相談役を務めていた。 死去1994年8月21日死去。享年82歳。死因は気管支肺炎。静岡県伊豆の国市(当時:韮山町)の「伊豆韮山(にらやま)温泉病院」で永眠した。葬儀の喪主は喪主は妻の永枝(ひさえ)さんが務めた。 |
| 1974年11月~1976年3月 |
清宮博(せいみや・ひろし)1974年11月の臨時取締役会で副社長から昇格。米アムダールの対応に手を焼いた。病気により、1年3か月で退任。 官僚出身。通信工学のエリート。戦前から逓信省の技術系キャリアとして働き、1955年に電電公社(現NTT)理事となった直後、47歳で富士通へと転出。第一技術部長に就任。それから20年間、富士通に身を置いた。 【学歴】 東京帝国大学(電気工学科)1932年卒業。逓信省(現:総務省)に入社。 【出身】 広島市出身、1908年8月生まれ 【死去】 1976年4月 【社内キャリア】 1971年に副社長。米アムダール担当の副社長として、山本卓眞氏らと共に交渉にあたった。 |
| 1970年5月~1974年11月 |
高羅芳光(こうら・よしみつ)経理・企画畑出身。経営難に陥っていた富士通を支え、Mシリーズ開発という巨大プロジェクトを予算面で守り抜いた。 1971年10月、米IBMのスーパー天才技術者だったアムダール博士が設立した「米アムダール社」と提携。同社への500万ドル出資などを決めた。アムダール社は、IBM互換機の開発を目指していた。 同じく1971年10月、通産省(現・経済産業省)の指導を受けて、日立製作所と提携。米IBM互換機の共同開発を進めることになった。 米アムダール、日立との提携を機に、富士通は独自路線からIBM互換機路線へと大きく舵を切った。 アムダールの経営はすぐに壁にぶちあたった。開発が遅れ、資金が枯渇。当初は経営には口を出さなかったが、追加融資を求められたのを機に、経営介入を始めた。アムダール氏をCEOから外す一方で、増資に応じて筆頭株主になった。 1972年、富士通からファナックを分離独立させた。エース稲葉清右衛門氏を副社長として送り込み、急成長の種をまいた。 1974年11月11日、通産省の指導のもと日立と共同開発したIBM互換機「FACOM M-190」が発表された。 1974年11月14日、富士通のコンピュータ事業の立役者であり、「コンピュータの神様」と呼ばれた池田敏雄常務(当時51歳)がクモ膜下出血で急逝した。 1974年11月22日の臨時取締役会で社長を退任。相談役に就いた。 なお、高羅氏は、自らが主導して1972年、国際交流を兼ねた教育施設「日米経営科学研究所(JAIMS)」をハワイに創設した。 当時、産業界は高度成長へ突き進み、国際化、文化貢献などは人の口の端にも上らなかった時代だった。それだけに、JAIMSの構想を提案した当時の高羅社長に対し役員たちから「無謀だ」の声が相次いだという。 最初に置かれたのは日本人を対象とした「国際経営コース」。1973年、こんどは外国人を対象に日本の経営を学んでもらう「日本経営コース」を開講した。 【学歴】 慶應義塾大学(経済学部)1929年卒業。富士電機製造に入社。 【出身】 山口県出身、1902年3月生まれ 【死去】 1984年5月(享年82歳) |
| 1959年11月~1970年5月 |
岡田完二郎(おかだ・かんじろう)※中興の祖。社運をかけてコンピューター事業に取り組んだ。文系出身ながら、コンピューターなどの技術をとことん勉強し、社内の技術者からも厚い信頼を得た。 67歳で宇部興産副社長から招聘され、富士通社長に就任した。 社内の錚々たる技術者たちから、やる気を引き出した。コンピューターの池田敏雄、機械の稲葉清右衛門、半導体の安福眞民などの天才たちだ。腰が低く、技術者を呼んでは頭を下げた。 コンピューターの専門工場の建設にゴーサインを出した。さらに1962年1月の年頭訓辞の中で「富士通はコンピューターに社運をかける」と宣言した。 当時の富士通の全売上高における事業別構成比は通信が約80%であるのに対し、コンピューターは10%弱。リスクの大きい経営判断だった。 学歴1913年、一橋大学(当時:東京高等商業学校)を卒業経歴1913年、古河財閥の持ち株会社である「古河合名」に入社。 古河財閥の三代目当主・古河虎之介氏に気に入られた。 若きエリートとして育てられ、「古川鉱業」「古川石炭」などグループ会社の取締役を務めた。 同じく古河グループの富士電機から分離する形で富士通(当時:富士通信機製造)が発足すると、監査役に就いた。戦後、古河グループをいったん離れる終戦直後の1945年10月に古川鉱業の社長になるが、GHQの公職追放の対象になり、退任。 古河グループから離れることになり、1947年4月、古河と関係のない宇部興産に東京支社として迎え入れられた。 常務、専務を経て副社長に。富士通社長に富士電機と富士通の社長を兼務していた和田恒輔社長に口説かれ、富士通の社長に就任。 67歳だった。実績コンピューター事業を柱に1961年春、通信工業部と電子工業部の「二工業部制」を導入。 コンピューターを、通信設備と並ぶ二本柱とする姿勢を鮮明にさせた。 1962年の年頭訓示では「コンピューターに社運を賭ける」と宣言した。日興証券向けデータ通信システムで失敗1964年4月、「FACOM(ファコム)323」を日興証券に納入。本店と支店を結ぶ売買伝票処理用のデータ通信システムを納入。 しかし、稼働せず。前渡金を返し、納期を延期してもらう。第一銀行のシステムを逆転受注主力取引銀行だった「第一銀行」の情報システムの受注に成功した。 IBMに内定していたが、岡田社長のトップ営業を功を奏し、ひっくり返した。 通産省からの支援を経て完成した「FACOM230-50」を、1968年に納入した。ソフトウエア開発部を創設1966年8月、ソフトウエア開発部を創設。部長は池田敏雄氏が兼務。次長や山本卓眞氏。京大から受注1968年春、「FACOM230-60」を完成。京都大学の計算センターからの受注に成功する。 同年9月に納入するが稼働せず。翌年1月にようやく稼働。国産メーカーでトップに1968年度、国産コンピューターメーカーのトップに躍り出る。 |
| 1954年11月~1959年11月 |
和田恒輔(再登板)(わだ・つねすけ)※古河鉱業入社後、1923年に同じ古河グループの富士通(当時:富士電機製造)に転籍。 1959年11月、コンピューター事業を担う「電子部」を創設。初代部長に小林大祐氏を充てた。 富士電機の社長を兼ねた。 |
| 1947年10月~1954年11月 |
高純一(こう・じゅんいち)※コンピューター事業への参入を決めたときの経営トップ。 1952年8月、電電公社(現NTT)が発足した。 電電公社が使う交換機をめぐり、国内メーカーであるNEC、沖電気、日立製作所は「クロスバー方式」を推進。 これに対して、国内メーカーで富士通だけは「EMD方式」を選んだ。 提携相手の独シーメンスが採用していたためだ。 こうしたなか、電電公社は1953年9月、クロスバー方式の採用を決定。 富士通は完全に出遅れることになった。 この責任をとって、高社長は辞任した。 |
| 1942年5月~1947年10月 |
和田恒輔(わだ・つねすけ) |
| 1935年6月~1942年5月 |
吉村萬治郎(よしむら・まんじろう) |
参考:投資顧問など